「狭間の館」

 まだ暑い、夏の日だった。
 その日、青年はいつものようにバイトが開けて、アパートへと戻る道をたどっていた。
 それに気がついたのは、歩き始めてしばらくたってからの事だった。唐突に目の前に大きな建物が見えてきた。立派な洋風建築だが、かなり寂れているようだ。
 (こんなところにこんな廃屋、あったか?)
 いぶかしむものの、現実に建物は目の前にある。
 と、突然。
 きぃぃぃ。
 「わっ!?」
 館の鉄製の門が、大きな軋みを上げながらいくらか開いたのだが、それがあまりに突然だったので、青年は腰も抜かさんばかりに驚いたのだった。
 しかし、奇妙ではある。
 別に風が吹いたわけでも、ましてや青年が触れたわけでもないのに、門扉はまさしくひとりでに開いたのだ。それだけではない。青年は気がついていないようだが、あたりは異様なほどの静寂に包まれていた。
 だが、彼は違うことに心奪われているようだ。
 元来、彼に廃墟探検のような趣味はない。しかし今、彼には目の前の廃屋が途方もなく魅力的なものに思えていた。青年は導かれるように黒い門を押し開けると、敷地内へと入り込んだ。
 前庭は手入れどころか、長らくだれも足を踏み入れてさえいないように荒れ放題になっていた。木々は無秩序に伸び、雑草がいたるところに生えている。青年はなかばそれらをかき分けるように館へと歩いていった。
 建物の正面玄関らしきところに来ると、やや装飾過多ながら一枚板で作られた重厚で立派な扉があった。
 (開くかな?)
 おそるおそる青年が手を伸ばす。すると指先が軽く触れただけで、まるで自動ドアのようにすっと内側にその口をあけた。
 さすがに先ほどのように声こそ上げなかったものの、青年はこれにもかなり驚いていた。だがすぐに気を取り直すと、屋敷の中へと踏み込んでいく。
 青年の姿を飲み込んだあと、扉が音もなく閉じたことに、彼は気がつかなかった。
 建物の中は思ったほど広くはなく、むしろ狭くさえ思えた。もっともこれは建物内部がうす暗いせいかも知れない。青年はどこか息苦しく感じ、早くもここに来たことを後悔し始めていた。
 ぼぉぉぉん。
 「わああ!!」
 飛び上がるほど驚いた青年が見ると、玄関ホールには大きな柱時計があり、それが鳴ったのだった。
 「・・・なんだよ、驚かすなよ」
 あえて声に出して落ち着こうとしているが、滝のように流れている冷や汗までは誤魔化せない。
 しかし、なぜ無人のはずのこの館の時計が動いているのか? 誰か住人がいるのか?
 その時、彼は視界の隅で何かが動くのに気がついた。
 「・・・誰かいるのか?」
 建物内部も外と同様、かなり荒れて痛んでいる。とても住民がいるとは思えないが、それでも彼は影のようなそれを探し始めた。
 背後で、柱時計が不気味に時を刻んでいる。
 青年は玄関からほこりがたまった廊下へとあがった。これは左右にのびているが、彼は右を目指した。先ほど、そちらで何かが動いた気がしたのだ。
 首を伸ばして奥を見る。窓から光が差し込んでいるが、それらはかなり弱々しく、置くまではっきり見通すことはできない。それでも彼は確かに見た。廊下の奥の部屋に、人影が入るのを。
 「あ」
 あとさき考えることもなく、青年はその影を追いかけた。わずかに見えただけだったが、シルエットからしてスカートをはいた少女のようだった。
 問題の部屋までは意外に早く着けた。見通しが悪く、目測を誤らせているようだ。
 もっとも、そこで彼は首をかしげる羽目になる。
 室内に、くだんの少女がいないのだ。そればかりか室内に入った形跡もない。そもそも廊下からしてほこりが積もっており、人が生活していた形跡などない。
 「!」
 今度は足音だ。青年は部屋を飛び出した。
 館の中央の玄関ホールには階段があるのだが、そこを誰かが駆け上がっていっているらしい。あわてて彼はもと来たルートを戻った。
 階段はホールの壁面に沿って設けられている。青年が見上げると、ちょうどスカートの裾が2階に消えていくところだ。フリルの着いたクラシカルなデザインのスカートだった。
 「あ、ちょっと待って!」
 しかしそんな声は聞こえていないのか、無常に少女らしき人影は2階へと吸い込まれていく。つられるように青年もあとを追って2階へとあがった。このとき、彼は気付くべきであった。少女がまったくほこりを散らしていないことに!
 2階の1階同様ほこりが積もった廊下を、少女が走り去るのが見えた。その少女は一番奥の部屋へと青年の目の前で入っていく。続いて彼もその部屋へとほこりを蹴立てて入っていった。
 はじめ、青年は目の前の光景が理解できなかった。
 そこにはいすに腰掛けた、古びた洋人形が一体あるだけだったのだ。彼が入ってきた扉以外に出入り口はない。窓はあるが、ここは2階だ。
 呆然とする中、以外に近くから、あの柱時計の鳴り響く音が聞こえた。はっとして腕時計を確認すると、もうとっくに夜になっている。
 「え? いつの間に?!」
 この館に入ったときは、まだ昼間だったはずだ。
 (とにかく、帰らなきゃ)
 時計から顔を上げたとたん、彼は凍りついた。
 「・・・そんな・・・なんで・・・?」
 そこには、あの洋人形が座っている。
 青年を見つめて、ほほえみを浮かべて。
 「うわああああ!!」
 転がるようにして彼は部屋を飛び出す。
 不気味などというレベルではない。しかし彼にはそうとしか思えなかった。あの人形は生きていると。
 廊下を走っていると、前のほうからあの古時計の音が再び聞こえてきた。異様に間隔が短いが、今の彼は気がつかない。ただ時計のあるところは出口だという思いだけが頭を支配していた。
 だが、いくら走ってもあの階段にたどり着かない。そんなに長いはずはない。ほんの数メートルだったはずだ。しかし現実にはただ単調な廊下が続くのみ。
 「そんなっ、そんなっ!!」
 息が切れ、動悸で胸が苦しい。そんな中、それは唐突に現れた。
 「うわあっ!!」
 目の前に突如、先ほどの洋人形が出現したのだ。それも先ほどそのままではない。目は赤く不気味に輝き、髪は逆立ち、口は不釣合いなまでに大きく裂け、そこからはおぞましい乱杭歯が覗いていた。まさに化け物そのものの姿だった。
 「あ、ああ・・・」
 腰が抜けたのか、その場にへたり込んだ青年は無意識に後ずさり始めた。と、指が床の変化を伝えてきたのだった。見るとそこにはいつの間にか階段があった。
 一瞬、ちらっと人形の様子をうかがうと、彼は転がるように階段を駆け下りた。途中、何度も足がもつれて転びそうになったが、それでも何とか階下に降りることができた。
 「・・・なんで? ・・・どうなってるの?」
 そこで彼が見たものは、またも信じられない光景だった。
 階段から降りた正面には、あの古時計が異様な速さで時を刻んでいるだけなのだ。そこにあったはずの玄関ホールなど、影も形もない。
 「そんな・・・」
 しかし柱時計は、あの玄関にあったものに間違いなかった。はじめ、この時計が入り口を塞いでいるのかと思ったが、すぐにそうではないことがわかった。これは昨日今日置かれたものではない。
 途方に暮れるしかなかった。疲れ果て、青年は床に座り込む。
 その時、階段から物音がした。
 顔を上げると、2階から何かが降りてくるようだった。
 ゆっくりと、ゆっくりと・・・。