ダン・ホルストのノート

マサチューセッツ州警察は先ごろ、先日発生した5名の行方不明事件に関して、唯一の遺留品と思しきノートを公開した。警察は現在でも80人体制で捜索を行っているが、5名の安否に関してはほぼ絶望視されている。なお、最初の4名と後に刑事が1名行方不明になった件を同一の事件としていることについては、警察は一切コメントしていない。
 以下に、そのノートの内容と一緒に挟まれていた新聞記事を掲載する。

 このノートに、私達の身に起こったことを書き記しておこうと思う。これから私の書くこの文章を信用するか否かは、これを発見した方に委ねる。誰にも見つけられない可能性も決して低くはないが。
 ここにはできるだけ客観的に私達が体験したことを書いていこうと思うが、どこまで客観的になれるか、正直、私には自信がない。願わくば書き終わるまで私の正気が保たれてるように。
 私はここマサチューセッツ州アーカムのミスカトニック大学に勤務している職員で、名をダン・ホルストという。今回は友人たちを誘って近くの山に散策に来たのだが、どこでどう間違ったのか、気がつけば森のかなり深い場所に迷い込んでいた。
 同行したのは妻で同僚でもあるカレンと、友人のジャック・アークバウト、そしてジャックの恋人のキャサリン・ジョスキン。この4人が山に入ったのはそろそろ秋の足音が聞こえ始めた9月初旬の日曜。車で登山道入り口脇の駐車場まで来て登山道に入ったのは昼前、11時くらいだったろうか。軽いハイキング程度のつもりだったので、みな装備も軽装で食料もランチと、あとはスナック程度しか持っていなかった。雲行きが怪しいことは私も最初から気がついていた。カレンが頻繁に上を見上げているが、私は大丈夫だなどと思ってもいないことを言って妻を安心させたが、その私自身、奇妙な胸騒ぎがしていたことは書いておくべきだろう。
 道は決して険しいものではなく日差しもないため、我々は快調に進み、ちょうど昼ごろに最初の目的地である森の広場に着くことができた。ここで私達はそれぞれ持ち寄ったランチを広げ、他愛無い話などで談笑しつつ、空腹を満たしていた。ただひとつ、皆の携帯電話が森に入ったとたん、一斉に圏外になったことを除けば、それなりにハイキングを満喫していたといえるだろう。
 やがて食欲も満たされた我々は再び森を歩き出した。このとき私はちらっと空を見たが、太陽は完全に隠れ、薄いグレーの雲が一面を覆っていたことを今でも覚えている。
 午後のルートはもう少しだけ山に入り、そこにある滝を見て戻ってくる予定だった。滝の近くだけ岩場を少し行く必要があるのだが、それ以外はいたって平易な、ごく普通のハイキングコースだ。
 それを最初に見つけたのは、キャスだった。
 「あれは何?」と何気なくジャックに聞いたのだが、ジャックはすぐにはわからず、私に聞いてきた。
 それは岩だった。もっともただの岩ではないことは一目でわかった。明らかに人為的に手が加えられている。しかし同時に異様に古いもののような気もした。私はこれでも比較民俗学を専攻していたのだが、イングランドのストーンサークルに近いような気がした。だがストーンサークルというには少々岩が少なすぎる。私は持ってきていたデジタルカメラでその環状列石のようなものを撮影した。
 結局古い石碑か何かだろうというところに落ち着き、我々はハイキングを再開した。
 だがこのとき、私は最初の異変に気がついていた。キャサリンが岩を見つけたころから、森が異様に静かになっているのだ。私は女性たちのパニックを恐れ口にしなかったが、今思えばあの時話しておき、引き返せばこんな事態にならずにすんだのかもしれない。
 それからしばらく歩いたが、やがて前を歩いていたジャックが立ち止まった。私は彼の傍らに行って彼の顔を覗き込んだ。その私の顔を見返して彼は「こんなに遠かったか?」と聞いた。
 そういえば。私は時計を見た。3時近い。こんなにかかるはずはない。どこかで道を間違えたのか? しかしここまで別れ道はなかった。だが確かにおかしい。私達は全員で今まで来た道を思い返してみたが、誰も別れ道らしきものを見ていなかった。しばらく考えてみたが、まだ道はあるのだしもう少し行ってみようという結論になった。正直、体を動かしていないと恐怖にとり憑かれそうになるというのもある。だが結局、この選択が正しかったのだとすぐにわかった。川が見えたのだ。
 しかし喜んだのもつかの間、私とジャックは再び困惑する羽目になった。川が明らかに私達の知っている川とは違うのだ。私はジャックと数回だがこの森に入ったことがあった。そのとき見た川と今、目の前にある川はまったくの別物にしか見えない。我々の知っている川は岩の間を穏やかに流れる静かな川なのだが、これは流れの中にある岩をも砕かんとするほど轟々と音を立てる急流だ。
 ここで我々のとった行動は、今考えると常軌を逸していたとしかいえない。何故あの時あんな選択をしたのか、何度考えてもわからない。私達は川沿いに滝まで行こうとしたのだ。激流と化した川のすぐ脇の。何故誰も反対しなかったのか、今考えても理解できない。
 案の定、この行程は困難を極めた。ただでさえ歩きにくい岩の上は急流の水しぶきで濡れて滑りやすくなっており、特に女性二人は我々が手を貸さなければとても進めないような場所がいくつもあった。私達はかなり時間はかかったが、何とか滝までたどり着くことはできたが、ここでもまた困惑する羽目になった。滝は川同様に異様なまでに激しいものなのだが、それよりも問題は滝つぼだった。なんと真っ黒なのである。水が黒いわけではない。それは滝や川を見れば一目瞭然だ。上は森の木々が茂っており、確かに光には乏しいが、覗き込んでも自分の顔が反射して見えるだけというのは異様だろう。
 そう。滝つぼでは波は立っておらず、水面には辺りの風景が映りこんでいたのだ。滝はこの水面に吸い込まれるように消えており、そこから水しぶきは一切上がってきていない。私達はこの奇怪な風景に絶句した。まるで異世界に迷い込んだ気分だ。
 だが、最初の悲劇はこの異世界で起こった。
 がさっ、という音に振り向いてみると、森の木が揺れて葉が何枚かはらはらと散っている。ジャックはそれ以外の変化にもすぐ気付いた。キャサリンがいないと。私は森へ入ったのではないかといった。急に催してくることはよくあることだ。ジャックも私のこの意見を聞いて多少、安堵したようだったが、それでも落ち着かないことに変わりはなかった。当然だろう。男の私でさえ薄ら寒いものを覚えるこんな森に、女性の身で一人で誰にも告げずに入るようなことなどあるだろうか? そして私達の不安はすぐに現実と化した。いくら待ってもキャスが戻らないのである。しかし、だからといって森に入るのは躊躇われた。明確な理由はないのだが、嫌な予感がするのだ。ジャックはそれでも森を探そうとしたが、私はカレンとともに必死で彼を止めるしかなかった。
 ジャックが落ち着いたころ、私達はまた新たな決断を迫られた。森を出なければならない。それもできるだけ早く。この森は明らかにおかしい。尋常ではない。こんなところからは一刻も早く立ち去るべきだ。当然、ジャックは反対した。キャサリンを置いてはいけないと。私は言った。こんな携帯電話も使えないようなところで我々が探しても、二重遭難するだけだ。それより早く戻って警察に連絡し、捜索してもらうほうがいいと。それでも彼は出発することを渋ったので私はここの風景を数枚、写真に撮っておき、あとで警察に写真を見せてここではぐれたと説明すれば警察も捜しやすいだろうと提案した。誰かの携帯にGPS機能でも付いていればよかったのかもしれないが、あいにく3人の携帯にはどれも付いていなかった。もっとも、今思えば付いていても意味はなかったろうが。
 我々は不気味な滝つぼから流れ出している川に沿って戻り始めた。相変わらず川はすさまじいといえるほどの激流で岩を叩いている。我々は先頭に私、続いて妻のカレン、最後にジャックの順で川のすぐ横の道を下る。
 岩肌がむき出しでさらに水しぶきで濡れて滑りやすくなっており、私達は来たときよりさらに苦労しながら戻っていたが、しばらく行くと後ろから叫び声が聞こえた。
 振り向くと私と妻の目の前で、ジャックがまさに川に飲み込まれていくところだった。川に落ちたのではない。飲み込まれたのだ。そうとしか表現しようがない。私が振り返ったとき、ジャックの体はまだ岩の上にあったが、下半身は透明の何かに掴まれていた。その何かは川から伸びており、私達夫婦が見ている前でジャックとともに川の中へと消えていった。私はしばらく呆然としていたが、ジャックが川から顔を出すことはなかった。ここは流れこそ急だが、そんなに深くはないはずだ。それがちらとも見えないということは考えにくいことではないか。
 最初のショックから立ち直ると、私達は急いで川沿いのルートを戻り、何とか森のハイキング道にまで戻ることができた。そこで私はどちらのルートを行くか悩んだ。来た道を引き返すのか、あるいはこのまま当初の予定通り進むのか。計画通りなら戻ったほうが早く森から出られる。しかし広場から川まで異様に遠かったことを考えると、逆に前へ進んだほうが早いような気もした。しばらく二人で悩んでいたが、結局先に進むことにした。ここまで来るのに思ってた以上に時間がかかっていたことを考えると、残りは少ないかもしれないと判断したのだ。
 相変わらず空はグレーの雲に覆われてて陰鬱な気分にしてくれる。私は時間を確認しようと腕時計に目を落として驚いた。もう午後6時を回っていたのだ。改めて回りを確認してみるが、そういえばかなり暗くなっている。私達は急いだほうがいいと歩みを早めた。それからいくばくもしないうちに妻がビクッと立ち止まったので、私はどうしたと彼女に聞いた。するとカレンは震えながら前方を指差した。
 妻の指差した先にあったのは、山道の脇に立っている岩だった。自然石ではない。明らかに人の手が加わっている。そう、以前見たストーンサークルに似た岩とほとんど同じような物がまたあったのだ。私は注意深くその岩を観察した。そして妻が怯えた理由を理解した。これは前に見たものとあまりに似ている。似すぎているといってもいい。もし違う状況なら同じものだといっても私は疑問を挟まないだろう。だが、それはありえない。私達が前に見たのはずっと後方なのだ。そしてこれは昨日今日ここに置かれた物ではないことは一目瞭然だった。念のためデジカメで撮影した前の岩を確認してみると、私の背中を冷たい汗が流れた。
 だが、確かに中心の岩はまったく同じだが、まわりの岩は多少違っていた。前は回りにぽつんぽつんとある感じだったが、ここは明らかにメインの岩の周りを円状に囲おうとしている意図が見て取れる。より環状列石に近付いているといえた。私はそれを理由に妻をなだめ、先を急いだ。
 意識し始めると、急にそればかりが気になるようになる。私はさらに暗くなったように感じられる森の中を、半ば走るように妻の手を引きながら進んでいた。足元は悪い。かなりでこぼこしているが傾斜はないので比較的楽ではあった。
 そう、傾斜はなかったのだ。山の森の中を下りているはずなのに。ああ、何故このことをあの時気が付かなかったのだろう。
 いや、気が付いても何もできないか。所詮私達などちっぽけな存在に過ぎないのだから。
 話を戻そう。私達はほとんど走るようにすでに暗くなった道を進んでいた。どのくらい進んだだろうか。少し前方が開けたように見えたので私は森を出たと思った。しかし現実は非常だった。そこは森の中のちょっとした広場でしかなく、さらに我々を不吉な気分にさせるものまでがあった。
 ストーンサークル、環状列石である。それが広場の中心にあった。今までに二度見たものと同じものだろうが、私はもう確認する気も失せていた。妻は広場手前で怯えて動けなくなっている。私は目の前の石組みを確認しようとしたが、彼女が手を離さず、その顔を見ると何も言わずにただぶるぶると首を振っている。カレンの言わんとしていることはわかる。だが私は目の前の環状列石がこれまで見たものとまた少し変わっていることが気になってしょうがなかった。結局妻は私の背後に隠れるようにしがみつきながら行くことになった。
 初めに見たときに気付いていたが、この時見た物は環状列石として完成していた。それと同時に禍々しい気配があたりを支配している。私は遠巻きにゆっくりとストーンサークルの周りを回ってみるが、かなり原始的なもののように感じられた。岩の加工技術がそれほど高度ではないのだ。そしてちょうど広場を半回転したところで広場から出る道を見つけた。カレンはそこへ逃げようと私から離れたが、そのとき、私の視界に奇妙な変化が起きた。私はカレンを止めようと振り向いたのだが、視界の中心にいた妻に向かって、風景がゆがんでいくように見えたのだ。初め、私は何が起こっているのかわからなかったが、彼女が悲鳴を上げたことで、異常が起こっているとわかった。わかったが私にできることなど(この部分は判読不能)今でも耳に残っている妻の悲鳴と、彼女の体が目に見えない何か、おそらく空間の裂け目のようなものではないかと思うのだが、それに潰される音が消えない。私は何もできなかった、私は(何か書きかけてやめた形跡有り)
 そこからどう移動したのかは、よく覚えていない。とにかく妻が喰われてから恐ろしくなった私は、ハイキング道ではなく森に飛び込んで、道も何もないところを必死になって走った。すっかり暗くなり、足元などろくに見えないのだが、それでも振り向かずにただ走った。止まったら死んでしまうかのように。
 もはや疑いようもなかった。この森には何かがいる。あるいは森その物が何か別の物になってしまっている。一刻も早く逃げなければならないが、どうすれば逃げられる? そんなことを自問しているうちに、気が付けば目の前に建物があった。今私がいる場所である。吸い込まれるようにこの中に入ったが当然、ここもまともであるはずがないという意識は持っている。だがとにかく、肉体が休息を求めていた。私は壁に背を預けると、そのままずるずると崩れ落ちるように床に座り込んでしまった。今もその体勢のままである。とにかく寒い。今になって軽装できたことを悔やむが、もうどうしようも(突然ここで筆跡が乱れる)
 ああ、どういうことなんだ一体? 今、私の携帯電話に着信が入った。森に入ってからずっと圏外で、それは今でもそのままなのに電話がかかってきたのだ。それも妻の携帯から。私は怯えながらも電話に出てみたが、聞こえてきたのは遠くで太鼓を叩くような音と、人間のものかどうかよくわからない生き物の低いうめき声だけだったが私にはそこまでが限界だった。私はあわてて携帯を切ると、そのまま電源まで切ってしまった。
 ここで私はふと思い出して背負ってきたザックをかき回し、中から出てきたスナックを食べながらデジカメを取り出した。スナックは正直、砂を食べているような感じだったが、デジカメの画像はそれ以上に私の気分を滅入らせた。私が確認したのは最初に見たときに撮ったストーンサークルの画像なんだが、それがはっきりそれとわかるほどに変化していたのだ。具体的には不完全だった環状列石が最後に見たもの同様に完全なものになっている。そして背景も最後に見た広場になっていたのだ。私が撮ったものでなければ最後に見たストーンサークルを撮影したといわれても疑いはしなかっただろう。だがそうではない確実な証拠が小さな液晶画面には映っていた。
 ストーンサークルの周りに、キャサリンやジャック、そしてカレンまでもが写りこんでいたのだ。どの姿も半透明で、青白い顔は恨めしげにこちらを見つめている。
 ここはいったいどうなっているのか? 私はデジカメを投げ出すと投げやりに考えた。大学で聞いた噂は本当だったのか? わからないことは山のようにあったが、これだけは確かだ。私は生きてここから逃げられはしないだろう。その証拠にこの家のあちこちからきしむ音が聞こえるようになって、それは時間とともに増え、そして近付いている。このノートが誰かの目に止まる可能性は限りなく少ないだろうが、もし見つけて読んだのなら、一つだけお願いしたい。あのストーンサークルの(以下判読不能)

アーカムニュース誌9月21日号の切り抜き
 先日発生した4名の男女の失踪事件について、警察は何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いとし、アーカム市郊外の森林を捜索すると同時に、行方不明者の自宅周辺や交友関係を当たっている。失踪しているのはダン・ホルストさん、妻の妻のカレン・ホルストさん。二人と同僚のジャック・アークバウトさん、キャサリン・ジョスキンさんの4名。警察は今回の事件についてまだほとんど証拠らしい証拠は入手できていないが、唯一森の中で発見されたダン・ホルストさんによるものと思われるノートが見つかっているが、内容が部分的に理解しがたいところがあるため、その分析は慎重を期している。