冬の空

 教室に入ると、当たり前だがもうかなりもうかなりの連中が来ていた。オレ、神谷惣一は何人かと軽く挨拶すると、自分の席に着いた。高校2年の冬はもうすぐ向き合わなければならない進路という現実と、まだ子供なのだという甘えがないまぜになった、なんとも形容しがたい重い気分にさせてくれる。2学期のテストは終わっていたが、だからといって無邪気になれるほど子供でもない自分にため息が出る。
 「おはよ、神谷君」
 「おう」
 「? どうしたの、元気ないみたいだけど?」
 登校してきた隣の席の林葵がオレの顔を覗き込んできる。
 「なんでもねーよ」
 ふっと林の顔にさびしげな表情が浮かんだが、オレは気付いていない振りをした。今だけではない。これまでずっと、オレは気付いていない振りをし続けてきた。
 それに気が付いたのは、2学期が始まってすぐくらいだったか。新学期になって席替えをし、隣に来た彼女が夏休み前とは違うように見えた。それはほんの少しの、具体的に説明できないほどのわずかな違いだが、オレにはなんとなく理解できた。オレ自身、以前から林のことを憎からず思っていたというのもあるのかもしれないが、とにかく、彼女の気持ちは理解できた。
 しかし、オレはその想いに答えなかった。理由は自分でもよくわからない。単なる気まぐれなような気もするが、それでオレ自身が納得できるかといえば否と答えるだろう。じゃあ何故? となるが、今はやっぱりわからないとしかいえない。
 「・・・・・・」
 林が黙って席に着く。オレは頬杖をついて窓の外を眺めるでもなく見ていた。
 何度となく繰り返してきた日常が、始まる。

 放課後、俺はツレの立花恵司と駅前のファーストフードでだべっていた。
 「・・・・・・お前、このくそ寒い中、よくコーラなんて飲めるな」
 「薬くさいコーヒーもどきを飲むよりはましだ」
 実際、何が悲しくてコートまで着てテラス席で炭酸飲料なんか飲んでるんだろう。
 「神谷、お前、もう進路は決めたのか?」
 「・・・・・・お前は進路指導か」
 我知らず、声のトーンに危険な色が混ざっていたと思う。
 「そういう訳じゃあないけどさ。お前、塾とか予備校なんかも行ってねえだろ? ひょっとして進学しねえんじゃねえかって思ってさ」
 俺らの通っている高校では、卒業生の大半が大学か専門学校に進学している。
 「そういうお前はどうなんだよ」
 「俺? 俺はK大志望だよ」
 「・・・・・・私立かよ。すげーな」
 そんなことねーよと立花は空になった紙コップを潰すと、手近なゴミ箱に放り込んだ。
 「成績が足りないだけだよ。もうちょっと早くからはじめてれば、国立狙ったって」
 そんなもんか、オレは心の中で一人つぶやいた。やはりこちらが目を背けていても、現実は向こうから確実にやってくる。
 「そういや神谷、お前気がついてんだろ?」
 「何が?」
 オレは見つめていたカップから顔も上げずに聞き返した。
 「林だよ。あいつお前のこと、まんざらでもないぜ、絶対」
 オレは、何も返事しなかった。
 「お前だって林のこと、気になってんだろ? 何で付き合わないんだよ?」
 「別に、そんなんじゃねぇよ」
 そう言うとオレはカップに残っていたペプシを一気にあおった。
 「まあ、いいけどさ。へんな意地張らないほうがいいと思うぜ」
 フン、とオレは鼻だけで友人のおせっかいに歯向かった。
 「ああそうだ。これ送っといてやるよ」
 オレが何のことか聞く前に、立花は自分の携帯を操作し、俺の携帯にメールを送ってきた。
 「何なんだよ」
 メールを確認すると、そこには11桁の数字が並んでいる。携帯の番号だ。
 「林の携帯だよ」
 立花は自分の携帯をポケットに押し込みながら席を立ちかけていた。
 「何なんだよ」
 同じ質問を繰り返すオレ。友人の好意はわかっているのに。
 「それをどうするかはお前次第だよ。とっとと消してしまうもよし。早速電話するもよし。好きに使ってくれ」
 じゃ、といって立花は去っていった。オレはといえば、携帯の液晶画面に映し出された番号をただにらみつけていた。

 その夜、夕食の席にはオレと母親、それに妹の恵美が一緒に食べている。親父はまだ帰っていない。まあいつものことなので誰も口にはしない。
 オレが肉じゃがを食っているとき、恵美がオレの顔をじっと見ながら突然言った。
 「お兄ちゃん、なんかあったの?」
 なんかって何だよ? と逆に聞き返すと妹のヤツ、こんなことを言いやがった。
 「だって、なんかうれしそうだよ?」
 はあ? うれしそう? オレが? オレは思わず母のほうを見たが、母はただ微笑みを顔に浮かべているだけで、何も言わない。この人はもともとあまり子供のことに立ち入ってこない人だった。俺がいまだに進路をを決めずにふらふらしているのに何も言わないのも、そういうポリシーからだろう、たぶん。
 「オレのどこがうれしそうなんだよ」
 半ばケンカ腰で恵美に詰め寄るが、妹はなれたもので動じもせず、
 「なんとなく」
 といいつつ、タコの酢の物を口に放り込んでいた。そんな姿にオレの怒りもむなしくなり、夕食の残りを平らげると自分の部屋へと引き上げた。
 部屋に戻るとベッドにごろんと横になってポケットから携帯を取り出し、二つ折りの筐体を意味もなく開けたり閉じたりといったことを繰り返していた。上体を起こして窓を見ると外はすっかり暗くなった住宅街が静かに横たわっている。あいつもこんな風景を見ているんだろうか、と自分でも意外なことを思っていることに驚いた。
 携帯を操作し、ある番号を呼び出す。映し出された画面を見つめ、しばらく考えたあと、オレは思い切って電話した。
 「はい」
 「あ、林か? オレ、神谷」
 「え? 神谷君? え?」
 あわてている。当たり前か。そもそも自分の携帯の番号をオレが知っているということ自体、予想外だったかもしれない。
 「今、ちょっといいか?」
 林が落ち着くまで少し間をおいて、オレは話し始めた。
 「明日、放課後、図書館に来てくれないか」
 「図書館? いいけど・・・・・・」
 「それだけなんだ、じゃあ」
 「あ」
 何か話したそうだったがオレはあえてそれを無視し、一方的に電話を切った。考えてみれば失礼な電話だが、オレは林から何か聞かれるのが怖かったのかもしれない。
 パタン、と画面を閉じた携帯を握り締め、視線を上げる。白く輝く月が恨めしく見えたのは何を意味していたのだろう。

 そしてあくる日、教室に入るとすでに林は来ていた。
 「あ、おはよう」
 「おう」
 ふと彼女の手元を見ると、何かを握り締めている。淡いピンクのそれは携帯だった。珍しいな、とは思った。普段彼女は携帯などカバンから出すこと自体珍しいのに。まあ理由が思い浮かばない訳ではないけど。
 そこへ立花がやってきた。
 「おっす神谷」
 「おう」
 「で、どうなんだ、あの後?」
 いきなり声をひそめて聞いてくる。露骨に怪しいだろ、それじゃあ。
 「別に」
 オレはしらばっくれた。
 「何だよそれ。俺がせっかく教えてやったのに、それじゃあ丸々無駄じゃねぇか」
 声がでかいって。
 「そんなことオレは知らねえよ。勝手にお前がやったことだろう。それにおまえもどうするかはオレの自由だって言ってたじゃねえか」
 隣に座ってる林にはもはやばればれだろうが、それでも何とか肝心な部分はぼかすようにしてオレは反論した。真実を言わなかったのは・・・・・・気まぐれ、かな。あまり他人を巻き込むのも子供っぽいかと思うし。
 しかし少し冷静になって林のほうを見れば分かりそうなものなのに、立花のヤツも一切振り返ろうとはしない。振り返れば気まずいからだろうけど。
 結局、立花はしばらく一人で愚痴っていたが、そのうち授業が始まって先生が入ってきたのでうやむやのままその場はおしまいとなった。
 窓の外には澄みわたった空が広がっている。どういう訳かこの日は授業に集中することができた。
 その日の放課後、オレは図書館に行ったが、入るなり愕然としてしまった。オレはもともと図書館とは縁遠い生活を送っていたが、それでもこれほどとは思ってなかった。
 びっくりするくらいの人、人、人。別に試験前でもないのに、と思ってから、あ、試験前かと思い直した。しかしこれはまずい。これでは待ち合わせどころではないし、第一人の目が多すぎる。オレは人目を避けたつもりなのに。
 どうしたもんかと入り口前で悩んでいると、そこへ林が来た。そうか、まだ来てなかったんだ。
 「あ」
 林もどうやらオレがこんなところにいるとは思ってなかったらしく、驚いた表情をした。そりゃそうだろう、何しろオレ自身も思ってなかったんだし。
 「はは、なんか中いっぱいでさ。とりあえず出ようか」
 図書館の入り口にいつまでも突っ立ってるわけにも行かず、オレは林を促してそこを後にした。
 とはいえ、他の場所を考えていたわけでもないオレは仕方なく学校を出ることにした。教室に寄ってカバンや上着などを取ってくる。二人タイミングをずらしたのは言うまでもないだろう。
 外はやや風が強く、空が高かった。刷毛ではいたような薄い雲がいく筋か見えるだけで、淡いブルーの空間がどこまでも続いているようだ。
 「寒くないか」
 「え? あ、大丈夫」
 林はコートを着てはいるが、見たところスプリングコートかと思うほど薄い。まあ生地にもよるしマフラーもしてることだから大丈夫なんだろう、たぶん。
 「っと、よく考えたらオレ、林の家知らないんだ。どこだっけ、家?」
 ついいつもの調子で駅に向かってたが、うちの高校は結構自宅が近いやつも多く、そういう連中は徒歩や自転車で通っている。
 「わたしも電車だから。二駅だけなんだけど」
 そういって彼女は笑った。
 よく考えてみれば、林とこんな風に話すのは初めてかもしれない。二学期になって席替えがあり、彼女はオレの隣になった。そのとき、オレは何も考えてなかったが、林のほうはどうなんだろう。そんなことをつらつらと思いながら、オレ達は駅へと向かっていく。特に話題はなくオレとしては少々気まずかったのだが、ちらと盗み見た林は、どこかうれしそうに見えたのは、うぬぼれすぎだろうか?
 さすがにこの時期に女の子をオープンテラスのファーストフードに誘うほど愚かでなかったオレは、しかしそこで自分の持ち弾の少なさを呪う羽目になった。すぐ隣にドーナツ屋があるが、ここは恐ろしく女子率が高い。誰がいるとも知れない場所に入るには、まだ時期尚早というものだろう。そうなると、もう知っている範囲でゆっくり話せるところなどない。
 途方に暮れつつ辺りを見回すと一軒の喫茶店が偶然目に入った。なんとなく暗い感じがしたが、他に適当な場所もないし、オレ達二人はその店に入ることにした。
 入り口のドアを押し開けるとカランカランとカウベルが鳴る。中は思っていたほど暗くはないが、広いわけでもない。客は五部の入りといったところか。オレ達はウェイトレスに案内されるままに窓際の席にコートを脱ぎつつ着いた。できればこういう場所は避けたいのだが、外から見た感じではほとんど分からないだろう、たぶん。
 オレはホットコーヒーを、林はミルクティを頼んだ。程なくして注文した品がテーブルに届く。オレはそのまま飲み始める。うん、やっぱりレギュラーだよな。
 「神谷君って、ブラックで飲むんだ」
 「ミルクだ砂糖だなんて入れたら、コーヒーの味がわからなくなるだろ」
 そういったものの、目の前の林はミルクティに砂糖を一さじ入れていた。
 「ま、好みの問題じゃね?」
 内心冷や汗をかきつつ。
 「そういや」
 オレは話題を変えようと口を開いた。
 「林は進路、どうするんだ?」
 一瞬、彼女ははっとした表情になったが、目を落としてカップを持ちながら答えてくれた。
 「わたしね、東京の学校に行こうと思ってる」
 「東京って、東大?」
 「まさか! 私立だよ。私なんかじゃどんなにがんばっても東大なんて行けないよ」
 そうなのか、という感想しか持てなかった。進路とかまったく興味がないのでろくな知識がない。東京の大学なんて東大以外思いつかないし。
 「東京、か。遠いな」
 「・・・・・・」
 新幹線か飛行機を使わないと行けないところ、というイメージがある。近くはない。
 ゆっくりと二つのカップから湯気が立ち上る。オレは自分のカップを取ると一口飲んだ。ダークブラウンの液体は冷めかけていた。
 「林は」
 沈黙に耐えられなくなり、オレは尋ねた。
 「一人で勉強してるのか?」
 きょとんとした表情を見せたが、彼女はこくんをうなずく。
 「オレも」
 言いかけて、言葉に詰まる。
 そっと目を上げると、林が真剣なまなざしでこちらを見ている。オレが何を言おうとしているのかわかっているのだろう。わかった上で、オレの口から聞きたいのだろう。
 オレは再びカップに口をつけたが、味なんてわからなかった。
 こういうとき人間ていうのは、めんどくさい生き物だよなと思う。いっそ動物なら本能の赴くままに好きな相手を手に入れられるのに。
 「東京は」
 オレはソーサーに戻したカップを見つめたままいった。
 「ここよりまだ寒いんだろうな」
 「・・・・・・え?」
 オレは、卑怯な男だ。
 呼び出したのはオレなのだ。オレに一方的に呼び出され、挙句期待はずれなことを聞かされるのでは、迷惑千万だろう。
 「わたしね、東京のM美大で絵の勉強がしたいの。画家を目指してるわけではないんだけどね。将来はイラストレーターかデザイナーになりたいなって。子供っぽいでしょ」
 突然、林が機関銃のようにしゃべりだした。オレはその変化についていけず、束の間、ぽかんとしていた。
 「絵を描くのが好きなの。何もない空間に自分の世界を表現するっていうことが楽しいの。だからそれをもっと専門的に勉強したいの。今の成績ではちょっと難しいんだけど、がんばってM美大に行きたいの。その時」
 そこで、林の声は途切れた。
 「その時」
 「うらやましいな」
 オレは林をさえぎるように口を開いた。
 「俺には進路っていうか将来なんてまるで実感なくて、ただなんとなく毎日を過ごしていただけなのに、林はもうしっかりした目標があるんだもんな。ホント、うらやましいよ」
 俺はもう一口コーヒーを飲んだ。
 「うらやましいからさ」
 カップの中のコーヒーは、もう冷めていた。その黒い表面を見つめながら俺は続けた。
 「オレも、東京の学校、受けようかな」
 カップから顔を上げてみた林の表情は、泣き笑いのような、複雑なものだった。ただ目に涙を溜め、両手を口元に持ってきたその姿を、オレは無性にいとおしく感じた。
 その後、林は席を立って洗面所にいった。オレは一人残ったテーブルで、カップにわずかに残っていたコーヒーを飲み干す。いくつかの覚悟とともに。