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 オレは混乱のただなかにいた。
 回りを見回してもどこまでも続くかと思われるような闇が埋め尽くしている。かといって暗いわけではない。自分の身体や脚などははっきり見えている。別に光っていたりもしない。いわゆる暗闇ではないのだ。ただあたり一面を漆黒が覆いつくしている、とでも言えばいいだろうか。暗いのではなく黒いのだ。
 そして当然ながら、ここがどこかもわからない。
 いや、それ以前の問題がある。
 オレは自分が誰なのかもわからなかった。自分の名前はもちろんのこと、今まであったであろう生活の記憶がきれいになくなっている。
「オレは、誰なんだ? ここは、どこだ?」
 ためしに声に出してみた。どうやら言葉は忘れていないらしい。
 混乱の原因はほかにもある。今、俺の手の中にある箱状のものがそうだ。
 一辺が二、三十センチほどだろうか。表面は光沢のある黒で、正六面体、立方体に見える箱状のものがオレの胸元にある。
 継ぎ目は見えない。何でできているのか、どうやって作られているのか見当もつかない。その上、重さをまるで感じないのだ。結構な大きさがあるのに、これっぽっちも箱の重さが感じられない。それは不思議を通り越して、気味が悪いほどだ。
 それに、この箱はオレの手から離すことはできなかった。手のひらに張り付いているわけではない。片手だけで持つことはできるし、その手を左右に入れ替えることもできる。ただ両手を同時に離すことができないのだ。足元に箱を置こうとしても、身体が固まって動くことができなくなる。
 これも不気味だが、オレが一番気になったのはこの箱は何のためのものなのかということだった。漆黒の一抱えもある箱は、ただ存在するだけで、どことなく薄ら寒く感じられた。
 何故そう思うのか? 自問してみるが答えは見つかりそうもない。何しろ手がかりとなる情報がオレにはあまりにも少なすぎた。記憶をなくしている上に、あたりには何も見えない。これではヒントすら手にできそうになかった。
 だが、これはあくまで直感だが、オレはこの箱はあまりいい思いのできそうなものとは思えなかった。むしろどちらかというと血なまぐさい、あまりお目にかかりたくない類のもののような気がしてならない。
(この箱はいったい……?)
 角度を変えてみたりしても、どの面も黒光りする表面があるばかりで、変わり映えしない。箱をこぶしで叩いてみたが、鈍い音がするだけで内部が空洞かどうかもわからない。もっとも、この箱が仮に空洞だとしても、それが音でわかるかどうかは甚だ疑わしい気はするが。
 ぬめりを持っているかのような光沢を持つ箱の表面を眺めてみる。そこにはオレの顔が映っていた。いや、オレの顔と思われるもの、というべきか。オレは自分の顔も覚えていなかった。そこにはまだ青年といっていいくらいの年齢と思しき男の顔が映りこんでいた。
 と、突然、その顔がぐにゃりと歪み、ぞっとする笑みを浮かべたものとなった。オレは腹の底から冷えるような思いをしたが、やはり箱を手放すことはできない。そればかりか箱はオレの方へと迫ってくる。傍目にはオレが自分で箱を顔に近付けているようにしか見えないだろうが、これは断じてオレの意思ではない。オレ以外の誰か、オレは箱だと思うのだが、それがオレの身体を操っている。そうとしか思えなかった。
 もうはこの表面は鼻先に迫っている。顔は悪鬼のような表情をしていた。必死で顔から箱を放そうとするが、身体は一向に自由にならない。
 すると次の瞬間、箱の表面が波打ち、そこから何かが飛び出してきた。それが小さな黒い、箱の表面と同じ質感の手だとわかったのは偶然だった。いや、箱がオレに見せたのだろうか。それが何本も箱から飛び出してくる。
 ぐうっと手がオレの頭を箱に引き寄せる。鼻先が箱に触れるまさにその瞬間、オレはすべてを悟った。
 ああ、この箱はオレの頭を入れる箱なんだ……。