「一夜」

 「まいったなあ、思ったより早く暮れてきやがった」
 見通しが悪いせいだろう、山道をかなりゆっくりと一台のバイクが走っている。いちおうオフロード用のようだが、エンジン音などからそれほど大型のものでもなさそうだ。
 「うえっ、雨まで降ってきやがった!」
 ぽつぽつと細かい水滴がヘルメットのバイザーにつき始めたのをみて、男は悲鳴を上げた。無理もない。暗くなった山の中で、さらに雨にまでたたられたら、たまったものではない。

 だが雨粒がやや大きくなり始めたころ、彼の前にこんな山の中では珍しいものが見えてきた。
 宿の明かりである。
 「こんな山奥に?」
 いぶるのも無理はない。山中の宿など珍しくもないが、ここはろくに道も整備されていないし、第一目の前まで来なければわからないほど地味なたたずまいは、趣があるといえばそうだろうが、これではここを目指して来たとしても、気がつかずに行ってしまうかもしれない。

 店先でバイクを止め、雨の様子をうかがっていると、
 「おや、お客さんですかな?」
 彼としては、ただ軒先を借りているだけのつもりだったのだが、満面の笑みを浮かべたその仲居らしき小太りの女性に声をかけられ、おもわず
 「え、あ、ええ」
 などとあいまいな返事をしてしまい、しかたなく泊まることにした。
  もっともテントは持っていたが、この雨では寝れたかどうかわかるまい。
  
  外からでは暗くてわからなかったが、宿そのものはかなり小さいようである。
 彼は宿帳に「森川 健司」と書いたが、住所のところで一瞬とまどうような様子を見せた。書くのをためらったというよりは、ど忘れでもしたようだったが、誰もそれに気がついた者はいないようだった。
 仲居は彼の荷物を持って、先にたって部屋へ案内する。
  「小さな宿なもんで実は部屋が一杯なんですよ。それで申し訳ないんですが相部屋でお願いしますね」
 早口でまくし立てられ、一度ははあと言ったものの、内容を理解するや森川はあわてて抗議した。
 「申し訳ありませんね。ほとんどの部屋は数名の方がすでに入ってて、一部屋だけお客様がお一人の部屋がありまして。えぇ、そのお客様にはもうご了解いいただいていますので」
 いつの間に客に事情を説明して了解を得たのだろう。彼はわずかにそんな疑問を持ったが、それもまもなく着いた部屋のふすまに断ち切られた。
 「失礼します。もうお一人、先ほどお話したお客さんをお連れしましたんで」
 仲居がふすまを開けたとたん、少し雨音が大きくなった気がした。部屋の窓が開いていたというわけではないのだが。その窓辺に女性が一人、手にした本から顔を上げてこちらを見ている。
 「え!? 女の人なの!?」
 「すいませんね。ここしかなくて。あ、相手の方にはご理解いいただいていますから」
 「わたしなら気にしないから」
 女性の側がそういうのなら、男の森川がガタガタ言うわけには行かない。
 
 気がつけば仲居は荷物を置いて去っていた。森川はすでに食事はすましていたので、二人は特にすることもなく、ただぼうっとしているしかなかった。
 女性は口数が少なく、というよりはほとんどしゃべらないので会話が成立しないのだが、どうやら長谷という名らしい。OLらしいのだが、今は休みを取って旅行をしている。
 「自分探し?」
 「そうよ」
 詳しい説明を期待したのだが、長谷はまた手元の文庫本に戻ってしまう。すべてがこんな感じで、まるで会話が展開しないという状況が続いていた。
 外は相変わらずの雨で、山の木々をたたく雨音が静かに響いている。
 やがて二人はそれぞれ風呂を使い、まだ少し早いが、もう寝ることにした。この宿には小さい割に露天風呂があるのだが、この雨なので二人とも館内の風呂で、ざっと汗を流すと、すぐに横になった。
 まさか布団を並べるわけにもいかないので、森川の布団は部屋の入り口近くの板の間に敷いてもらった。多少寝心地は悪いが、雨の中のテントに比べれば気にもならない。

 夜半もすぎたくらいだろうか。森川は物音で目が覚めた。どうやらふすまの閉まる音だったようだ。同室の長谷がトイレにでも行ったのだろう。彼はそう思い、寝なおそうと思ったが、どういうわけか目が冴えてきてしまった。
 まだ雨音は響いているが、せっかく露天風呂のある宿に泊まったんだし。と、彼はタオルをつかむと部屋を出た。
 脱衣所で浴衣を脱いで外に出ると、やはり雨はそれなりに降っているのでタオルを頭に乗せた。雨と風呂の湯気で、思っていた以上に見通しは悪い。かろうじて湯船を確認すると、意外に寒い外気から逃れるようにあわててかかり湯をして、風呂に飛び込むように入った。
 「かあぁっ! やっぱ露天風呂はいいなあ」
 「悪いけど、もう少し静かに入ってくださる?」
 「わああっ!」
 湯気の向こうには、あの長谷が入っていたのだが、まったくそのことに気がつかなかった森川は、本気で驚いてしまった。
 また湯気と雨で視界が悪い上に、暗い夜の露天風呂ということで、色の白い長谷は恐ろしく存在感が薄く、まるで幽霊か何かのようだった。
 「夜の雨って素敵ね。なんだか高いところに吸い込まれていきそう」
 とつぜん彼女のほうから話しかけてきたので、森川は少々面食らった。これまでにはなかったことだった。
 彼女は宿のタオルで額から流れる水滴をぬぐいながら、夜空を見上げていた。
 「こんな山奥の森の中の温泉宿なんて、秘湯中の秘湯ね」
 「自分探しの旅だって?」
 「え?」
 違和感を覚えた森川は、長谷の独り言のような言葉をさえぎって話しかけた。
 「自分を見つめなおすなら、静かなところが一番でしょ? 観光するための旅行じゃないんだし」
 「それにしちゃあ、ここは静か過ぎないか? うっそうとした森に囲まれた山宿なんざ景色を見たってぱっとしねえし、気分が滅入るだけだぜ」
 そうね。長谷は片手で湯をすくい、それが指の隙間から零れ落ちるのを眺めていた。
 「悩み事、か?」
 唐突な森川の言葉に、ゆっくりと長谷が顔を向けた。降り続く雨にぬれた髪が額に張り付き、まさに絵に描いたような幽霊さながらに。
 「・・・どうして?」
 先ほどとはうって変わって、部屋などで見せた、暗い印象の彼女の口調だった。ふっと湯の温度が下がったような印象さえある。
 しかし森川はその変化に気がつかないのか、あるいは気づいていたとしても無視しているのか、風呂の湯でざばっと派手に顔を洗い、そのあと、湯船のふちに頭を乗せると長谷と同じように夜空を見上げた。
 「生きていりゃあいろんなことがあるさ。嫌なことだって多いし、なかなか自分の思うようにいかないこともな」
 雨が、森川の顔を打つ。
 「逃げ出したくなるときだってあるだろうし、すべてをぶち壊したくなる時だってあるだろうさ」
 彼の声はなぜか、妙な説得力があった。
 「あなたに、わかるの? 人の苦しさが?」
 まるで恨みでもあるような視線と声で、長谷は聞いてきた。
 「ああ、わかるね。なんたって俺もそうやって逃げ出しちまったからな」
 「え?」
 「でもな、逃げ出した先には何もないんだ。結局自分がいるだけさ。苦しむのも嫌になるのも、結局は自分の受け取り方なんだ。それ次第でたいていのことは何とかやっていけるはずだ。ほとんどの奴はそこまでの努力すらせずに、ほかに責任転嫁しているだけだ。少なくとも俺にはそう見えるね」
 雨が、森の木の葉や風呂の湯を打つ音がやけに大きく響く。
 「でも自分とちゃんと向き合えるほど強い人間なんてそんなにいないわ。そんな弱い人はどうすればいいのよ?」
 滅々とした責めるような声で、彼女が問いかけてくる。湯気の向こうに見えるそのシルエットは、どこかおぼろげだ。
「何も全部正面から向き合う必要はないさ。時には斜めからいったっていいし、場合によっちゃあ裏側から当たるのも手だろうさ」
「人に陥れられても?」
 もう長谷の顔は見えない。湯気や雨を通して、いや、それら自身が発しているような声が聞こえるだけだ。
 「人間は社会的な生きもんだ。人との関わりなしには生きてはいけない。人が人として生きていく以上、他人とぶつかるときもあるだろう。さっきも言ったが問題に直接自分が当たるんじゃなく、誰か間に人を立ててるっていうのも時にはあるんじゃねえか?」
 「間に立てられたのが、ただの捨て駒だとしても?」
 それは、地の底の怨念のような声だった。
 「それで逃げるっていうのか?」
 キッと長谷がにらむのがわかった。
 「その先に待っているのが極楽浄土とは限らないぜ。むしろそっから先が地獄かもしれない」
 「それは、そうだけど」
 心なしか、声に力がなくなっている。
 「それに」
 森川はもう一度温泉で顔を洗うと言った。
 「生きてりゃやり直せるさ。何度だってな」
 わずかに風が吹いた。雨も少しましになったようだ。もやのような湯気も薄くなり、たがいの姿がはっきり見えるようになった。
 「ありがとう。なんだか少しすっとしたわ」
 おさきに。そういうと長谷は男性の前だというのに湯船から立ち上がると、前だけ軽くタオルで抑えた程度で、露天風呂から出て行った。
 長谷の白い裸身が出て行った後、森川が見上げた夜空はもうほとんど雨も降っておらず、雲が流れていくのが見えた。

 森川が部屋に戻ると、奥の部屋で長谷が静かに寝息を立てていた。ほかに音は聞こえない。それを見てわずかに微笑んだ彼は、そっとふすまを閉めた。

 翌朝、目覚めた長谷は、森川の姿はおろか、彼のいた形跡すらないことに気がついた。
 早朝に発ったのか? そうも考えた彼女は仲居を捕まえると、彼のことを問いただした。
 しかし、帰ってきたのは意外な言葉だった。
 「はあ? 相部屋の男性? 夕べはそんなお客さんなんかいませんでしたよ? 第一女性客と男性客を相部屋になんて、ありえないじゃないですか」
 言われてみればそのとおりだ。しかし、では昨夜のあの森川なる人物は?
 「森川? はて、どこかで聞いたような・・・ああ! あのオートバイの!」
 「あのオートバイ?」
 「いえね、もう何年前になるのか忘れましたが、学生さんでしたかねえ。森川って男のお客さんがオートバイでいらしたんですけどね、どうも事情はよくわからないんですが、悩み事でも抱えてらしたようでねえ。2、3日泊まったあと、森で首を・・・」
 「自殺?!」
 長谷は絶句した。
 「ええ、そうなんですよ。でもね、この話には続きがあって、この男性、死んだことをずいぶん後悔したんでしょうかねえ。それ以後、悩みやつらいことを抱えてこの宿に泊まると、必ずといっていいほどその人の前に現れて、励ましていくんですって」
 ひょっとして、あなたも何か悩みでも? と突っ込んでくる仲居を適当に追い返して長谷は窓辺へと向かった。
 空は晴れ渡り、わずかに風は強そうだがいい天気だった。
 思い切って窓を開けてみる。
 山の朝独特の冷気が吹き込み、思わず身が引き締まる。彼女は夕べの森川の言葉を思い出してみた。
 「うん、そうだね。もう一度やりなおそうか」
 実は彼女は人間関係に悩んで、自殺を考えて、この辺鄙な宿にやってきたのだった。しかしそれももう過去のこととなったようだ。
 「おなかすいたなあ。朝ごはんまだかな?」
 長谷は部屋から顔を出すと、仲居の姿を探した。
 「すいませーん!」
 その声は、昨夜の露天風呂で響いた陰々滅々としたものではなく、はつらつとした、希望と期待に満ちたものだった。